ピーテル・パウル・ルーベンスとは?
ピーテル・パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens
ピーテル・パウル・ルーベンスは、無類の多作と言われるほど多くの作品を残したバロック美術を代表する画家。外交官として政治にも関わり複数の国で活躍しました。
日本でルーベンスと言えば、アニメ「フランダースの犬」とセットで語られることも多いでしょう。フランダースの犬の最終回で、主人公ネロが天に召される前に観たアントワープ大聖堂の祭壇画『キリスト昇架』『キリスト降架』の作者がルーベンスです。
ルーベンスの生涯
ルーベンスは、父が宗教紛争から逃れるために滞在していたドイツの町ジーゲンで誕生。10歳で父を亡くし、母の実家があるアントワープに戻ると、13歳で伯爵未亡人のもとに奉公に出され、その後アントワープの画家のアトリエで修行、18才で人気画家ファン・フェーンに弟子入りしました。
21歳でアントワープの画家組合に親方として登録したルーベンスは、22歳から31歳までをイタリアで過ごします。ヴェネツィアでヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノの作品に触れ、ローマでミケランジェロやラファエロのほか、カラヴァッジオ(カラヴァッジョ)やアンニバーレ・カラッチの作品を研究するなど、イタリア各地で様々な芸術家の作品に触れたルーベンス。ルーベンスが自身の画風を確立していったのは、このイタリア滞在の影響が大きかったと言われています。
母の危篤をきっかけに故郷へ戻り、ネーデルラント総督アルブレヒト大公夫妻の宮廷画家となったルーベンスは、アントウェルペンに自身の工房を構えます。工房には後に有名画家となるヴァン・ダイクなど優秀な弟子を抱えました。そして同時期にイザベラ・ブラントと結婚。充実した仕事、幸せな家庭、ルーベンスはその両方を手に入れます。
30代半ばでアントワープ大聖堂の祭壇画(フランダースの犬に登場する作品)を制作、40代でフランス皇太后からリュクサンブール宮の装飾を頼まれるなど仕事も私生活も何もかもが順風満帆に思えた頃、愛娘のクララが亡くなり、その3年後には愛妻イザベラも亡くなるという不幸がルーベンスを襲いました。
絶望的な気分に陥った時期もあったものの、ルーベンスは画家として外交官として仕事に邁進し、イギリスとスペインの平和交渉に貢献するなど交渉術の手腕を発揮。政治的な活躍により、ルーベンスはスペイン国王からも英国王からもナイトの爵位を受けています。スペイン滞在時にはスペイン国王の宮廷画家ベラスケスとも親交がありました。
53歳になったルーベンスは、亡くなった妻イザベラの姪・エレーヌと再婚。当時のエレーヌは16歳、ルーベンスとは親子以上に年の離れた結婚でしたが、ルーベンスにとって2度目のこの結婚も幸せなものだったと言われています。画家・外交官としての名声、爵位、2回の結婚と8人の子供、莫大な財産と、あらゆるものを手に入れたルーベンスは55歳で政治の世界から引退、62歳で亡くなりました。
ルーベンスの特徴・作品鑑賞ポイント
美術史史上最も成功した画家ルーベンス
「王の画家にして画家の王」という異名を取ったルーベンス。教養が高く博識で、オランダ語、イタリア語、フランス語、ラテン語などが堪能だったルーベンスは、イタリアやフランスのほか、スペイン、イギリス、オーストリアなどの国を飛び回り外交官としても活躍しました。宮廷画家として、外交官として、世界各地で名声を得たルーベンスは、経済的にも大変裕福で、美術史上最も成功した画家と言われるほどの成功を収めています。
ルーベンスは話術・交渉術に長けており、外交官として外国に出かけた際にも画家としてのPRを忘れず、国外の王族や貴族からの肖像画の依頼などを請け負いました。画家と言えば「依頼主からの注文を受けて制作に取りかかる」のが一般的だった時代に、ルーベンスは自分の工房に「売り絵」の在庫を抱え、欲しいという人がいればすぐに作品を売れるようにしていたほか、版画を使って自分の作品を広く宣伝するなど、経営者としての手腕も発揮していたようです。
家庭人としても良き夫・良き父だったルーベンスの結婚生活は円満で幸せなものだったと言われており、その片鱗はルーベンスが残した妻や子供の肖像画からも見ることができます。
ルーベンスのドラマティックな演出力
ありのまま、存在するままを肖像画にするベラスケスのような画家もいれば、ごくごく平凡な人物をドラマティックに、まるで神話の登場人物のように仕立てた肖像画を制作するルーベンスのような画家もいます。
歴史画や神話画も制作していたルーベンスは肖像画にもドラマ性を持たせることがありました。その代表的な作品が『マリー・ド・メディシスの生涯』です。
フランス王アンリ4世妃のマリー・ド・メディシスから、妃の生涯を主題にした作品を依頼されたルーベンス。ルーベンスが絵画制作の依頼を受けたときにはすでに作品を飾る場所もサイズも決まっており、しかもその依頼は24点もの連作でした。しかし肝心の連作の主役となるマリー・ド・メディシスは、連作に描けるほどの政治的な栄華も実績もなく、どこを褒めればいいのか分からない女性。24点もの連作をどう描けばいいものか…。政治に不穏な空気が漂っていたフランスで、作品に政治的な批判を持ち込みたくなかったルーベンスは悩みます。
そしてルーベンスが捻り出した最良の案は、連作の後半部分のマリー・ド・メディシスを神話の主役に仕立て上げることでした。ルーベンスの手によって、連作『マリー・ド・メディシスの生涯』はダイナミックでロマンティックな物語となり、マリー・ド・メディシスは壮麗なヒロインに化けたのです。
肖像画でありながら、詩的で神話性を持ち寓意も込められたマリー・ド・メディシスの生涯は、ルーベンスの肖像画のあり方をよく表しています。
古典彫刻が手本・ルーベンスが描く男たち
ルーベンスの描く男性は筋肉隆々の逞しい体つき、そしてその動きは大げさに思えるほどダイナミック。これはルーベンスが理想の肉体として古典彫刻を手本にしているからだと考えられます。古典彫刻の肉体美そのものとも言えるルーベンスの男性像はずっしりとした重量を感じさせ、筋肉に力を込め身体をねじらせたポーズからは古代彫刻ラオコーンのような壮大さを感じます。
メタボ体型が基本・ルーベンスが描く女たち
ルーベンスの描く女性はムチムチと脂肪が乗っているのが特徴で、西洋絵画でよく見かける「ふくよか」を超えた、有り体に言えば「肥満女性」もしばしば描かれました。
ルーベンスが理想とする女性美は、現代の私たちの美の基準からはちょっと外れたところに存在しています。ふくよかな女性を好んで描く画家は多いですが、ルーベンスの場合は極端な印象です。
多作ゆえの批判も受けたルーベンス
ルーベンスが生涯描いた絵画は1,500点とも言われ、その作品ジャンルは歴史画、神話画、宗教画、肖像画、風景画と幅広いものでした。構想をまとめる速さと筆の確実さが評判だったルーベンスとはいえ、これだけの作品数ともなると画家1人の技量だけでこなすのは不可能であり、経営者としての才能もあったルーベンスが自身の工房で優秀な弟子たちを育てたからこそ成し得たものだということは想像に難くありません。ルーベンスの工房からは後に有名画家となるヴァン・ダイクも出ています。
多ジャンルの作品を多作したルーベンスは、ボードレールに「通俗の泉」と揶揄されるなど、時には批判的に論評される(一流画家として評価されない)こともありましたが、ルーベンスと同時代を生きた劇作家のシェイクスピアも同様の批判を浴びていることから、批判の原因には「1ジャンルを突き詰めてこそ本物」という世間一般的な意識があったと考えられます。