オディロン・ルドンとは? 画家プロフィール
オディロン・ルドン Odilon Redon
オディロン・ルドン(以下、ルドン)は、象徴主義を代表するフランスの画家・版画家です。奇妙な怪物の石版画や木炭画で知られるルドンは、本格的なデビューが40代と遅咲きの画家で、後期には華やかで色鮮やかな花や蝶なども描きました。
アカデミーへの反発が強まった19世紀末、内的感覚や神秘体験を芸術に昇華させたルドンの表現は、ムンクらも活躍した象徴主義の先駆となり、同時期の芸術家ドガやボナールに影響を与えたほか、後のダダイスムやシュルレアリスムへのきっかけともなりました。
ルドンの代表作に『眼=気球』『キュクロプス』『目を閉じて』などがあります。
オディロン・ルドンの生涯
1840年、フランスのヴォルドーに生まれたルドンは、生まれてすぐに近くの叔父の家に預けられました。病弱だったルドンは11歳まで学校に行かずに過ごし、その後入った寄宿学校でも周囲に馴染めず孤独な10代を過ごします。
寄宿学校を卒業したルドンは、植物学者のアルマン・クラヴォーとの出会いで顕微鏡のなかに見える世界を知り、ボードレール、エドガー・アラン・ポーなど象徴主義文学に触れることで自身の作風の礎を築きます。24歳でパリ国立美術学校へ入学したものの教授と折り合いが悪く数ヶ月で退学、ヴォルドーに戻ったルドンは画家・銅版画家のロドルフ・ブレダンから学びを得ました。
普仏戦争に従軍したルドンは病気で除隊となり、そのままパリに移住するとデッサンを描き溜める生活を送ります。アンリ・ファンタン=ラトゥールに石版画を学び、39歳で石版画集「夢のなかで」を出版。遅咲きの芸術家デビューを飾ったルドンは、妻カミーユ・ファルトと結婚すると怒涛のペースで制作に打ち込み、パステルや油彩へと表現手法を広げ、晩年は明るい作品も多く手がけました。
レジオン・ドヌール勲章を受章するなどルドンの芸術活動は順調かと思えましたが、第一次大戦に召集された息子アリが行方不明となると、息子を探し歩き、息子を心配したまま76歳でこの世を去りました。
オディロン・ルドンの特徴・作品鑑賞ポイント
ルドンの神秘的な黒の世界・ノワール
ルドンといえば、まず最初に思い浮かぶのは奇妙な生き物や怪物・巨人でしょう。
世紀末芸術のなかで中核をなした象徴主義は、目に見えないもの、精神世界、想像の世界などを視覚化し、自己の内面を表現しました。そのなかでルドンは、鉛筆や木炭、版画などによって「黒(ノワール)」と呼ぶ作品群を制作し、色彩に頼らない独自の世界観を生み出します。
ルドンが描く想像上の生き物が奇妙な形をしていたり、動植物に人間のような顔が付いていたりするのは、植物学者のアルマン・クラヴォーと共に顕微鏡で覗いた微生物であったり、ボードレールら象徴主義文学からの影響が大きいと考えられます。
ルドンは病弱で孤独だった幼少期を過ごしており、暗い部屋で想像を巡らすことも多かったそうなので、想像や内面の世界を表現する土台は子供時代に育まれたものなのかもしれません。
ルドンは1886年の印象派展にモノクロの木炭画を出品し批判を浴びたといいます。華やかな色彩の印象派美術から見ると、モノクロで詩的なルドンの世界観は異色であり、時代の空気に合わなかったのでしょう。
心境の変化?宗教画や神話画も描いたルドン
長男である息子を早くに亡くしたルドンは、その後誕生した次男アリをことのほか可愛がりました。そして、ルドンにとって暗い過去であったペイルルバードの実家の農園を兄が売却すると、1890年代のルドンはまるで呪縛から解き放たれたかのように、明るく華やかな作品を制作し始めます。
モノクロから色鮮やかな作品へと変貌を遂げる過程で、ルドンはいくつかの宗教画を手がけています。右の『イエスの御心』は1895年、左の『輪光の聖母』1898年、中央の『キリストの磔刑』は1910年にルドンが制作した作品で、漆黒の世界から色彩のある世界へとルドンの作品が転換していく様子が分かります。ルドンは他にもシェイクスピアや神話を主題とした作品、仏陀を描いた作品などを残しました。
ルドンの表現は色鮮やかな世界へ
ルドンが使用する画材は、木炭や鉛筆からパステルや油彩へと変化していきます。本格的な芸術家デビューが40代と遅咲きだったルドンですが、年を重ねても自分の技法や作風に固執することはありませんでした。初期とはまったく別物ともいえる晩年のルドン作品は、こうしたルドンの柔軟な姿勢から生まれたものだといえます。
晩年のルドンは花瓶に活けられた花束の絵を多く描いたほか、ヴィーナスやコキールといった主題にも繰り返し取り組み、同じ題名の作品が複数点残されています。