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エドゥアール・マネの生涯と作品の特徴・代表作・有名絵画を解説

エドゥアール・マネ 画家プロフィール

エドゥアール・マネ『パレットを持った自画像』1879年 個人蔵

エドゥアール・マネ『パレットを持った自画像』

近代絵画の父 エドゥアール・マネ 簡単ざっくり紹介

エドゥアール・マネ(1832-1883)は、写実主義を代表するフランス・パリの画家です。

19世紀最も物議を醸した画家のひとりに挙げられるマネは、『草上の昼食』で大スキャンダルを巻き起こすと、続く『オランピア』の発表でもバッシングを浴びました。

サロン主流の古典絵画の世界に新しい風を呼び込んだマネは、「近代絵画の父」「プレ印象派の画家」と呼ばれるなど印象派の画家たちにも大きな影響を与えたことで知られます。

エドゥアール・マネの生涯・経歴

エドゥアール・マネ『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』1860年 オルセー美術館

マネの両親『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』

1832年1月23日、エドゥアール・マネはフランス・パリに住む司法省の高級官僚の父と外交官の娘である母の裕福な家庭の長男(3人兄弟)として生まれました。

代々法律家を輩出する裕福なブルジョワ旧家で、なに不自由ない幸福な子供時代を送ったマネは、父の望みであった弁護士になる道には進まず、18歳でルーヴル美術館の模写登録生になると、同時に人気画家トマ・クチュールの画塾にも入学します。

画家となったマネは、前衛的な若い画家や一部批評家の支持を集めたものの、伝統的絵画と現代性を併せ持つ『草上の昼食』『オランピア』でバッシングを浴びるなど、サロンでは入選と落選を繰り返しました。

エドゥアール・マネ『フォリー・ベルジェールのバー』1882年 コートールド・ギャラリー

マネ晩年の大作『フォリー・ベルジェールのバー』

フランスの画家としてサロンへの入選を重視していたマネは生涯サロンへの出品を続けましたが、マネに対する世間とサロンの評価が固まるのは、マネが晩年を迎えるころになってからのことです。

1881年(マネ49歳)にはフランスの最高栄誉レジオンドヌール勲章を受章、翌年には最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』を発表します。

1883年4月30日、患っていた梅毒の症状が悪化したマネは、左足を切断する手術の甲斐なくに息を引き取りました。51歳でした。

マネへのバッシング・美術界の一大スキャンダル

マネがバッシングを浴びた『草上の昼食(左)』と『オランピア(右)』

マネがバッシングを浴びた『草上の昼食(左)』と『オランピア(右)』

マネが1863年にサロンに出品した『草上の昼食』は落選しますが、その年は落選展が開催されることとなり、マネの出品作品『草上の昼食』も日の目をみることになります。

落選展で公開された『草上の昼食』はパリ市民に大変な衝撃を与え、瞬く間に大スキャンダルへと発展。マネは画壇や世間から多くの批判・バッシングを浴びました。

そしてマネが『草上の昼食』のバッシングの熱が冷めた頃合いを見て発表した『オランピア』は、『草上の昼食』を上回る批判・バッシングを浴びることになってしまいます。『オランピア』へのバッシングのすさまじさは、「作品が破損されかねない」と警戒した当局が展示会場に監視を配置したほどでした。

草上の昼食・オランピアへのバッシングの理由

1863年サロン出品カバネルとボードリーによる裸婦

1863年にサロンで人気を得たカバネル『ヴィーナスの誕生(左)』とボードリー『真珠と波(右)』

なぜエドゥアール・マネの『草上の昼食』『オランピア』は一大スキャンダルとされ、批判・バッシングを浴びることになったのでしょうか。

マネの『草上の昼食』と『オランピア』に描かれているのは理想化されていない現実の女性です。それまでの絵画では、裸婦は神話や歴史物語の登場人物として理想化されていることが多く、サロンに出品するような作品の主題に「現実の裸婦」を用いることは望ましくありませんでした。

ただ、同年サロンに出品されたポール・ボードリー『真珠と波』の裸婦は理想化されていないにも関わらず人気だったことから、理想化の有無だけがバッシング理由とは言い切れません。

ボードリーとマネの評価を分けたのは、主題の現代的・風紀的な問題が大きいでしょう。『草上の昼食』では流行の服装をした男性のなかに現実の裸婦が混じっています。まして『オランピア』のモデルはあからさまに職業娼婦。男の前で平気な顔で裸でいる女や猥褻な娼婦が鑑賞者に眼差しを向けるなど「とんでもない」「理解に苦しむ」というわけです。

『草上の昼食』『オランピア』でフランス大衆の怒りを買ったマネは、しばらくのあいだ悪名を馳せることになってしまいました。

印象派の画家から慕われたパリのカリスマ・マネ

マネによるカフェ・ゲルボワの風景(リトグラフ)

マネによるカフェ・ゲルボワの風景(リトグラフ)

生粋のパリっ子で都会人だったマネは、パリの洒落た生活とカフェ文化を愛する、ダンディーな皮肉屋でした。マネは人付き合いが良かったことで知られ、当時としては前衛的だった印象派の画家たちとも親しく交流しています。

後の印象派画家であるモネやシスレーを含むパリの若い前衛画家たちは、サロンへの出品でスキャンダル続きだったマネの新しい絵画への方向性に共感し、毎夜マネの馴染みの店カフェ・ゲルボワに集まっては熱い美術論・絵画論を交わしました。マネを尊敬し、印象派の諸原理を徹底的に議論した彼らは「マネの一派」と称されるほどでした。

印象派の手法を積極的に取り入れたマネの作品

印象派の手法を積極的に取り入れたマネの作品

そして新たな刺激に敏感なマネもまた、印象派の画家らから新たなインスピレーションを得て、印象派の野外制作による明るい外光表現、ドガの競馬やカフェなど当世風モティーフを主題にする発想を自身の作品にも積極的に取り入れるようになっていきます。

絵画の世界に新しい風を呼び込んだマネは「近代絵画の父」「プレ印象派の画家」と呼ばれるなど印象派の画家たちに大きな影響を与え、モネはマネの死後もマネの代表作『オランピア』を国家に寄贈するために奔走しました。

まぎらわしい?どっちがどっち マネとモネの関係

まぎらわしい?マネが描いたモネ(左)、モネが描いたマネ(右)

まぎらわしい?マネが描いたモネ(左)、モネが描いたマネ(右)

「マネとモネは紛らわしい」「どちらかゴチャゴチャになる」という声を耳にすることがあります。

日本人にとって外国人の名前は間違えやすいということもありますが、当時のフランスの大衆もマネとモネを勘違いすることが度々あったようです。

マネが『草上の昼食』や『オランピア』で美術界のスキャンダルに巻き込まれていた頃、クロード・モネはまだ無名の画家でした。その後モネの名前が世間に認知されるようになると、マネはモネと混同されることに戸惑ったという話が残されています。

前述の通りマネとモネには親交があり、お互いの人物画を描いたこともありました。

伝統的絵画とサロンを重んじた革命の画家・マネ

ティツィアーノ、ドラクロワ、レンブラントなど巨匠作品を積極的に模写したマネ

マネが模写に励んだティツィアーノ、ドラクロワ、レンブラントら巨匠作品

トマ・クチュールの型にはまったアカデミックで退屈な教授法に嫌気が差し、「アトリエに入っていくと、まるで墓場の中に入っていくような気がする。光も影もみなうそだ…」と愚痴をこぼしたというマネ。とはいえ、クチュールとことごとく衝突しながらも、マネはしっかり6年間クチュールの画塾に籍を置き、伝統的な技法を身につけました。

マネはルーヴル美術館で巨匠の名画を模写することにも熱心だったほか、オランダ、ドイツ、オーストリア、イタリアの美術館にも足を運び、古典絵画を研究し模写やスケッチに励んでいます。ティツィアーノ、ラファエロ、ベラスケス、ゴヤ、レンブラントといった巨匠の作品がマネに与えた影響は多大なものでした。

エドゥアール・マネ『自画像』1878-1879年 アーティゾン美術館

保守的な革命児エドゥアール・マネの自画像

第二帝政から第三共和制時代にかけての中産市民階級であるブルジョワ家庭に育ったマネは、フランスの階級社会特有の保守的な意識を持っていたことで知られます。マネの優雅な振る舞いや上品な趣味の良さ、パリっ子らしい皮肉っぽさは恵まれた環境で育ったからこそ身に付いたものといえるでしょう。

「美術界の革命児」とも紹介されるマネですが、マネがアカデミックな画家に師事したことや古典絵画の巨匠を尊敬していたことと、マネの育った環境を合わせて考えると、マネは革新性・現代性を持つ作品を制作しつつ、立場としては体制側でサロン(官展)を重要視しており、巨匠たちの古典絵画の真の伝道者になってフランスで尊敬を集めたいという保守的な野心家だったであろうことが見えてきます。

実際、マネは当時としては前衛的だった印象派展には一度も参加していません。モネは印象派展を旗揚げする際マネへの出品を何度も強く誘っていますが、サロンでの成功を望んでいたマネは、彼らの成功を祈りつつも印象派への参加には首を縦に振りませんでした。

エドゥアール・マネの作品の特徴・鑑賞ポイント

古典と現代を組み合わせた主題

現代的な主題にパリの流行を取り入れたマネ作品

現代的な主題にパリの流行を取り入れたマネ作品

マネが革新的な画家である最大の理由は、主題の面においてでしょう。

詩人であり美術評論家でもあったシャルル・ボードレールの「真の芸術家は現代の流行から詩的・歴史的意味を抽出すべき」「最新の生活を描く画家たれ」という思想に感銘と影響を受けたマネは、伝統的な主題を現代に置き換えた作品や都会での生活を主題とした作品を制作しました。

芸術家肌で新たな刺激に敏感だったマネは、パリの流行も積極的に絵画に取り込んでいます。

明るい色彩と厚塗りの筆触

明るい色彩と筆触が特徴のマネ作品

明るい色彩と筆触が特徴のマネ作品

マネの明るく華やかな色彩を用いた絵画は、後の印象派の誕生にも繋がっていきます。明るい色彩を広い面積に用いることであえて立体感をおさえるという独特のくふうをこらした笛を吹く少年はマネらしい作品です。

古典絵画を学び、ベラスケスやゴヤの筆触と色彩、自由闊達な技法の影響を受けたマネは、塗った絵具が乾かないうちに次の絵具を塗り、色彩をあいまいにする手法を用いました。

マネ独特の厚塗りで筆跡が造形的効果を発揮する筆触は、肖像画だけでなく、静物画や風景画でも発揮されています。また一部の作品では油絵にスケッチ風のタッチを取り入れています。

ジャポニスム・浮世絵の影響

ジャポニスムの影響が顕著なマネ作品

ジャポネズリー(日本趣味)やジャポニスムの影響が顕著なマネ作品

写実主義を代表する画家クールベはマネの絵画を「トランプ札のように平面だ」と評しました。

当時のフランスには、ジャポネズリー(日本趣味)やジャポニスムの流行により浮世絵を始めとする日本文化が輸入されていました。影がなく輪郭線や視覚的関係によって絵画が成立する浮世絵は、フランス人からすると新手法のように映ったのかもしれません。

影も奥行もない平面的な背景に人物が佇むマネ『笛を吹く少年』は、ベラスケスのほか日本の浮世絵の影響を感じさせる作品として度々取り上げられる作品です。

マネの大胆に筆跡を残す手法には、同じく筆跡をはっきりと残す日本の水墨画の影響も感じられます。

エドゥアール・マネの作表作・解説一覧

エドゥアール・マネ『草上の昼食』

エドゥアール・マネ『草上の昼食』1862-1863年 オルセー美術館

エドゥアール・マネ『草上の昼食』

作品名:草上の昼食
制作年:1863年
所蔵先:オルセー美術館
ジャンル:風俗画
キーワード:1日の時間(昼)、 昼食、 食事の時間

エドゥアール・マネ『オランピア』

エドゥアール・マネ『オランピア』1863年 オルセー美術館

エドゥアール・マネ『オランピア』

作品名:オランピア
制作年:1863年
所蔵先:オルセー美術館
ジャンル:肖像画
キーワード:猫

エドゥアール・マネ『フォリー・ベルジェールのバー』

エドゥアール・マネ『フォリー・ベルジェールのバー』1882年 コートールド・ギャラリー

エドゥアール・マネ『フォリー・ベルジェールのバー』

作品名:フォリー・ベルジェールのバー
制作年:1882年
所蔵先:コートールド・ギャラリー
ジャンル:肖像画
キーワード:カフェ・レストラン・バー、花瓶の花、女性の肖像

エドゥアール・マネ『笛を吹く少年』

エドゥアール・マネ『笛を吹く少年』1866年 オルセー美術館

エドゥアール・マネ『笛を吹く少年』

作品名:笛を吹く少年
制作年:1866年
所蔵先:オルセー美術館
ジャンル:肖像画
キーワード:音楽・歌・楽器、 子供の肖像、 帽子

エドゥアール・マネ『ヴェネツィアの大運河』

エドゥアール・マネ『ヴェネツィアの大運河』1875年 シェルバーン博物館

エドゥアール・マネ『ヴェネツィアの大運河』

作品名:ヴェネツィアの大運河
制作年:1875年
所蔵先:シェルバーン博物館
ジャンル:風景画
キーワード:河川・運河、船・舟・ボート

エドゥアール・マネ『メロンと桃の静物』

エドゥアール・マネ『メロンと桃の静物』1866年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー

エドゥアール・マネ『メロンと桃の静物』

作品名:メロンと桃の静物
制作年:1866年
所蔵先:ワシントン・ナショナル・ギャラリー
ジャンル:静物画
キーワード:メロン、モモ・桃、テーブル

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