- フィンセント・ファン・ゴッホ 画家プロフィール
- フィンセント・ファン・ゴッホの生涯・経歴
- オランダ・ゴッホ幼少期時代
- 美術商グーピル商会に就職したゴッホ
- 派遣先のロンドンで初めての失恋
- オランダの神学大学受験に挫折
- ベルギーの炭坑地帯での極端な奉仕活動
- ゴッホ、天命である画家の道を決意
- ゴッホ、人生2度目の大失恋
- 実家を飛び出したゴッホ、シーンとの出会い
- 両親と再同居、初期の名画誕生
- 恋人の自殺未遂と父の死
- アントウェルペンでの苦悩と収穫
- ゴッホがパリで学んだ印象派の色彩
- タンギー爺さんやゴーギャンとの出会い
- ジャポネズリーや戸外制作で新たな表現を獲得
- ユートピア日本を夢見たアルルでの生活
- ゴッホとゴーギャンの短い共同生活
- ゴッホとゴーギャンの修羅場-耳切り事件
- ゴッホの発作の原因、病名は
- 住民からの嘆願書-嫌われた赤毛の狂人
- サン=レミでの入院と制作活動
- ゴッホの甥フィンセント誕生と祝福の名画
- 束の間の幸せ オーヴェル時代
- テオの窮状とゴッホ最後の手紙
- フィンセント・ファン・ゴッホ、最期の数日間
- フィンセント・ファン・ゴッホの葬儀とテオの死
- ファン・ゴッホの作品の特徴・鑑賞ポイント
- ファン・ゴッホにまつわる噂の真相を解説
- ファン・ゴッホが弟テオに宛てた手紙・書簡集
- フィンセント・ファン・ゴッホの評価と現在
- ファン・ゴッホ死去後に高額取引された作品
フィンセント・ファン・ゴッホ 画家プロフィール
フィンセント・ファン・ゴッホ 簡単ざっくり紹介
フィンセント・ファン・ゴッホは、オランダ出身の画家です。
牧師の子として生まれ、画商、学校教師、伝道師などを経て画家の道へ進むと、10年という短い期間に油彩画約860点、水彩画約150点、素描約1,030点と数多くの作品を制作しました。弟テオとの650通以上の文通をまとめた書簡集も刊行されています。
37歳で亡くなったゴッホは、壮絶な人生と唯一無二の作風で死後大きな注目を浴びるようになり、現在では世界中に名を知られる近代美術の巨匠となりました。
ファン・ゴッホの代表作に『ひまわり』『自画像』『星月夜』などがあります。
フィンセント・ファン・ゴッホの生涯・経歴
オランダ・ゴッホ幼少期時代
フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の村ツンデルトに生まれました。
ファン・ゴッホにはフィンセントという同じ名前を持つ兄がいましたが、兄は生まれて間もなく亡くなったか死産で、本記事で紹介する画家フィンセント・ファン・ゴッホは第2子に当たります。
生涯に渡りゴッホを支え続けたテオはゴッホの4歳年下の弟です。
ゴッホの父テオドロス・ファン・ゴッホは物静かな牧師で、ゴッホの祖父も牧師でした。また、芸術家の家系としても知られていたファン・ゴッホ家には画廊を経営する伯父もいました。
このふたつの職業はゴッホの人生に大きな影響を与えます。
美術商グーピル商会に就職したゴッホ
ゴッホは人から強制されることを嫌う頑固な癇癪持ちで、牧師である父親の個人的な教育の影響か、かなり内向的な性格でもあったといわれます。
周囲に馴染めない息子を心配した家族は、1869年7月、伯父が設立した美術商グーピル商会のハーグ支店にゴッホを見習いとして就職させました。
ゴッホ自身も当初はこの仕事を気に入っており、1873年に同じくグーピル商会に就職した弟テオに宛てて「きっとこの仕事が気に入る、立派な仕事だよ」と手紙を送ったりしています。
これと前後して1872年よりゴッホと弟のテオは文通を開始しており、手紙のやりとりは生涯続きました。
派遣先のロンドンで初めての失恋
1873年、ゴッホはグーピル商会ロンドン支店に派遣されます。
田舎育ちのゴッホにはロンドンの街が刺激的に映ったのか、美術館や名所巡りなどを楽しんだり、商売人らしい恰好をつけるためにシルクハットを購入するなど、しばらくは都会暮らしを満喫しました。
しかし、ゴッホが下宿先のウルシュラ・ロワイエ夫人の娘ウジェニーに恋心を抱いたあたりから雲行きが怪しくなります。ゴッホは唐突に一方的にウジェニーに告白し、冷たい態度で振られてしまったのです。
ゴッホは馬鹿にされたような深い挫折感と失恋の意気消沈から立ち直れず、もとの内向的で無口な青年に戻ってしまいました。これはゴッホの女性関係に暗い影を落とした最初の出来事でもありました。
そして、ゴッホはこの頃から「自分の父親の職業こそ最も聖なる、最も自分に合った職業だ」と考えるようになり、宗教にのめりこみます。
何事にも極端な性格のゴッホは、宗教に関心が向かうと同時にグーピル商会での仕事に嫌気が差してしまい、勤務態度が悪くなった挙句、1876年にグーピル商会を辞職します。事実上の解雇でした。
その後は、イギリスのラムズゲイトの小さなメソジスト派の補助教員として働いたり、ロンドン郊外を説教して歩きますが、ここでも極端な性格が災いし、説教活動への熱中から体調を崩したゴッホはオランダに戻ることになりました。
オランダの神学大学受験に挫折
1877年、ゴッホはセント伯父の勧めでオランダ・ドルトレヒトの書店に勤めた後、1877年5月には「聖職者の道に進む」と父に報告し、神学大学受験準備のためにアムステルダムへと向かいます。
しかし、いざ受験勉強を始めてみると、牧師になるために必須である古典語(ギリシア語やラテン語)の習得がゴッホには難しく、苦労して真剣に取り組んだものの、正規の道で牧師になることは断念せざるを得ませんでした。
自分の目的は貧しい人たちを救うこと、受験勉強は福音伝道師には不要ではないかと考えたゴッホは、神学大学の受験を放棄し、福音伝道師になる道を志します。
ベルギーの炭坑地帯での極端な奉仕活動
1878年、福音伝道師となるための3か月の訓練を受けたゴッホは、ベルギーのモンス南の炭坑地帯ボリナージュへ向かい、一定の試用期間中、見習い伝道師として伝道をすることになります。
貧しい人々を救う道に情熱を燃やしたゴッホは、自分の衣類を分け与えたり、自分は飲まず食わずのまま貧しい人たちに奉仕しますが、ゴッホの監督者からみれば「ゴッホは狂信的で常軌を逸している」ようにしか見えず、ゴッホは「伝道師の素養なし」と任期延長を認められぬまま1879年7月に解雇されてしまいます。
ゴッホは自らの意思で、試用期間を過ぎたあとも1880年7月までの約1年間、モンス近くの炭鉱地帯キュエムにて無報酬の奉仕活動を継続し、読書や炭坑夫の素描などをして過ごしました。
ゴッホ、天命である画家の道を決意
1880年の夏、伝道師への道を諦めきれぬまま炭坑夫の素描を続けていたゴッホは、「画家こそ自分の天命である」と確信し、画家になることを決意します。
制作した絵をテオに送ることでテオからの援助が約束されると、ゴッホは農民や風景の素描にも励むようになりました。このとき始まったテオからゴッホへの仕送りは生涯続くことになります。
ゴッホの絵の勉強方法はもっぱら独学で、他の画家の模写や、グーピル商会が出していた独習教本シリーズや絵画の学習に関する本を熱心に読みふけるというもの。
1880年10月にはごく短期間ながらブリュッセルの美術学校で遠近法や解剖学も学びました。
ゴッホ、人生2度目の大失恋
画家への夢に向けて歩き始めたかに思われた1881年、オランダに戻ったゴッホは2度目の大失恋を経験します。
今回の恋の相手は7歳年上の未亡人でいとこのケー・フォス。ケーはゴッホからの求愛をはっきりと断ったにも関わらず、ゴッホは未練がましくケーを追いかけ続けました。
ケーがゴッホの前に姿を現さなくなると、ゴッホはケーの父親の元に向かい、ランプの炎に手をかざしながら「こうしていられる間だけでいいからケーに会わせてほしい」と懇願しますが、ケーの父親は断固拒否したといいます。
この女性問題が原因で情緒不安定となったゴッホは、自分の父親と大げんかの末に家を飛び出し、ハーグに移り住むことになりました。
実家を飛び出したゴッホ、シーンとの出会い
1882年1月、ハーグに移り住んだゴッホは、親戚にあたる画家アントン・マウフェから絵画の手ほどきを受けることを決めます。
そして間もなく、ゴッホはアルコール中毒で子持ちの娼婦クラシーナ・マリア・ホールニック(通称シーン)と出会い、ゴッホとシーンは同棲を始めました。
ゴッホはシーンだけでなく彼女の5歳の娘の面倒も看てやりますが、牧師の息子が娼婦と同棲するなどゴッホの両親には到底受け入れられることではなく、この同棲は大反対に遭います。
一度は結婚まで決意したゴッホでしたが、貧しい者・みじめな者への憐憫の情からシーンを保護したゴッホにはシーンを更生させることはできず、ゴッホのひとりよがりとも取れるこの同棲は1年ほどで解消されました。
ゴッホにとってシーンとの同棲は、生涯唯一、女性と共に過ごした「家庭」と呼べる暮らしでした。
両親と再同居、初期の名画誕生
シーンとの暮らしから逃れたゴッホはオランダ北部のドレスデン地方へ向かい、同年12月にはヌエネンの両親の元へと帰って来ました。
1883年12月から1885年11月までの両親と暮らした最後の2年間、ゴッホは絵画制作に打ち込み、200点あまりの油彩画とそれをはるか凌ぐ量の素描を残します。
ゴッホ初期の名画「馬鈴薯を食べる人たち」はこの期間に制作された作品です。
恋人の自殺未遂と父の死
1884年、ゴッホとシーンの同棲騒動から2年後、ゴッホは再び家族の頭痛の種となる女性問題を起こします。
ゴッホの12歳年上の女性マルホット・ベーヘマンがゴッホに好意を持ったことをきっかけに、牧師の娘であったマルホットとゴッホは結婚を決意したのです。双方の家族が猛反対したことからマルホットは服毒自殺を図り大騒動になりました。
この騒動でゴッホと父親の関係は再び悪化します。
そして翌年1885年3月、ゴッホの父テオドロスは脳卒中により63歳で急死しました。
アントウェルペンでの苦悩と収穫
父テオドロス亡き後、ゴッホは1885年11月から1886年2月までアントウェルペンの絵の具屋の2階に部屋を借り、美術学校に登録、絵画・素描クラスに入学します。
それまでほとんど独学でしか絵を学んだことのないゴッホにとって、美術学校は初めてのアカデミックな訓練の場でした。
しかし、基礎がまったくないことを理由にひたすら石膏デッサンだけをやらされる日々や、教師との対立、学生仲間からの嘲笑など、ゴッホにとってこの美術学校での体験は苦い思い出となります。
アントウェルペンの暮らしのなかで、ゴッホにとって2つの収穫がありました。
まず1つめは、ルーベンスの絵画から強い感銘を受けたこと。
アントウェルペンはルーベンスの聖地といえるほどルーベンス作品に恵まれた土地で、ゴッホはルーベンスの影響によってダークな色彩中心の制作方法を見直し、カーマインレッド、コバルトブルー、エメラルドグリーンなど明るい色彩を使い始めます。
2つめは、日本の浮世絵を知ったこと。
ジャポニスムの先駆者であるエドモン・ド・ゴンクールの小説『シェリ』を読んだゴッホは、遠い日本に想いを馳せ、部屋に浮世絵を貼ったり、ジャポネズリー(日本趣味)に関心を持つようになります。
ゴッホがパリで学んだ印象派の色彩
1886年3月、パリにいる弟テオのもとに突然ゴッホが現れます。このときゴッホは32歳。以降37歳で亡くなるまでゴッホはフランスの地で過ごし、オランダに戻ることはありませんでした。
パリに落ち着いたゴッホは、モンマルトルのコルモンの画塾に入塾。アカデミックな教えに囚われない自由で前衛的な若い画家たち、トゥールーズ=ロートレック、エミール・ベルナール、ルイ・アンクタンらと出会います。
また、画商である弟テオの紹介によってモネやルノワールといった印象派の巨匠と知り合えたこと、この年の5月に開かれた第8回印象派展で、シスレー、ピサロ、ドガ、シニャック、スーラなどの画家たちと知り合えたことも、ゴッホにとって大変有益でした。
コルモンの画塾で習作を重ね、ピサロから印象派の原理を教わったゴッホは、これまで温めていた色彩のくふうを発展させ、明るく華やかな花の静物画なども制作するようになります。
1886年は近代美術史における節目ともいえる年、印象派展はこの年の第8回をもって終了しました。
タンギー爺さんやゴーギャンとの出会い
1886年6月、ゴッホはテオと共にモンマルトル・ルピック54番地へ移住し、そこにアトリエを設けます。
同じころに、画材屋であるタンギー爺さんの店で、ゴーギャンや次の時代を担う芸術家たちと出会ったゴッホは、日本の浮世絵や最先端のパリの芸術に触れる機会にも恵まれました。
タンギー爺さんは貧しく売れない画家に絵の具や自分の持ち物を分けてやる面倒見の良い店主で、奉仕活動をしていたゴッホと共通の理想を胸に抱くような優しい性格だったといいます。
ジャン・モレアスが象徴主義宣言を出した1886年。芸術の潮流が印象主義から象徴主義へ変わろうとする新鮮な刺激に溢れたパリの暮らしのなかで、ゴッホはタンギー爺さんやテオの助けを借りながら、様々な技法や理論を吸収していきました。
ジャポネズリーや戸外制作で新たな表現を獲得
1887年、ゴッホはシニャックやベルナールと戸外で川岸の風景画を制作したり、画商ピンクの店で購入した日本の浮世絵版画をもとに3点のジャポネズリーを描くなど、新たな表現を積極的に試しました。また、この時期は新印象派の点描にも積極的に取り組みました。
ゴッホの自画像全37点のうち28点は、パリ在住の2年間で制作されたものです。自画像にも新たな表現を積極的に盛り込んでいることがよくわかります。
なにもかもが順調に思えたパリでの生活でしたが、ゴッホの遠慮なく物を言う黙っていられない性格や酒癖の悪さに距離を置きたがる人も多く、ゴッホは付き合いにくい頑固者だと思われていたようです。
ゴッホ自身も都会の華やかな生活のなかで健康に支障をきたし、トゥールーズ=ロートレックに勧められたフランスの南部アルル地方への移住を検討するようになっていきます。
ユートピア日本を夢見たアルルでの生活
浮世絵や文学作品の影響を受けたゴッホは、遠い日本を夢見るうちに、自分の頭の中にだけ存在する理想化された日本を作り上げていました。
そして、その日本の風景は南仏にあり、これからの芸術の未来は南仏で発展していくのだと考えるようになります。
1888年2月、トゥールーズ=ロートレックの勧めでアルルに移住したゴッホは、宿屋と食堂を兼ねた「カレル」で部屋を借りました。
ゴッホがアルルに到着したときアルルは雪景色でしたが、アルルや日本に夢いっぱいだったゴッホは「日本人画家たちが描いた冬景色のようだ」「弟よ、私は日本にいるような気がしている」と手紙に喜びを綴っています。
アルルの人たちは「自分(ゴッホのこと)を狂人や浮浪者と見ているようだ」と察したゴッホですが、ゴッホ自身はアルルの土地をとても気に入り、アルルに立ち寄ったあとマルセイユに行くはずだった当初の予定を変更し、そのままアルルに落ち着きます。
春になると、ゴッホはアルルの真っ青に広がる空や明るい果樹園、緑の畑など、ローヌ川沿いの田園地帯で絵画制作に精を出しました。
1888年3月にパリのアンデパンダン展に3点出品するなど、アルルで画家として順調な成長を感じていたゴッホは、アルルの黄色い家を芸術家たちの共同体にする計画を夢見るようになります。
ゴッホが代表作『ひまわり』を描き始めたのはこの頃からです。
5月には黄色い家の右翼4部屋を借り、仲間たちにも誘いをかけますが、実際にゴッホとの共同生活を名乗り出たのは、ゴッホの弟テオに借金があったゴーギャンただ一人。
10月よりゴッホとゴーギャンの共同生活が始まることになりました。
ゴッホとゴーギャンの短い共同生活
ゴッホは「ゴーギャンとの共同生活を少なくとも半年は送れるだろう」と楽しみにしていました。
一方のゴーギャンは「タヒチに行く前の短期間、安く暮らせるなら場所はどこでも良い」程度の認識で、アルルやゴッホには特に何の思い入れもなかったようです。
ゴーギャンがゴッホの待つアルルにやって来たばかりの頃は、2人で料理や食事を共にし、戸外でも室内でも互いを意識しながら絵画制作に励み、モンペリエのファーブル美術館に一緒に出かけるなど、楽しい時間を過ごしていました。
しかし、ゴッホとゴーギャンは絵画制作の方向性や芸術論ではことごとく考え方が食い違い、意見の対立では収まらず、激しい罵り合いに発展することもしばしばだったようです。
ゴッホとゴーギャンの修羅場-耳切り事件
同居から2か月後の1888年12月23日、絶え間ない罵り合いに疲れたゴーギャンは、アルルを立ち去ることをゴッホに告げます。ゴッホの懸命な慰留にもゴーギャンは耳を貸しませんでした。
逆上したゴッホはカミソリを手にゴーギャンを追いかけまわし(これはゴーギャンが大げさに吹聴した説あり)、ゴーギャンは慌てて近所の宿に避難します。ゴーギャンの気持ちが戻らないことに絶望したゴッホは、自らの左の耳を削ぎ落すと、馴染みの売春宿の娼婦に削ぎ落した自分の左耳を送り付け、そのまま自宅に帰りました。
翌朝、警察がベッドに血だらけで横たわるゴッホを発見、ゴッホは病院に収容されます。ゴッホの心の病による発作が明らかになった最初の事件でした。
この耳切り事件をきっかけに、ゴーギャンはパリに戻り、ゴッホは2週間の入院生活を余儀なくされます。
ゴッホの発作の原因、病名は
1889年2月、耳切り事件以降たびたび起こる発作に悩まされるようになったゴッホは、不眠・幻覚・妄想に苦しみ、近所の人からの警察への通報によって再び入院しました。
ゴッホの発作の原因は、癇癪、アルコール中毒、てんかん、統合失調症、双極性障害など様々な説がありますが、正確なところは分かっていません。
住民からの嘆願書-嫌われた赤毛の狂人
ゴッホがアルルに来た当初から警戒の色を隠さなかったアルルの人々は、耳切り事件を起こしたゴッホに対し、恐れと嫌悪を抱くようになっていきます。
粗野で気の狂ったようにふるまうゴッホのことを、人々は「オランダの赤毛の狂人」と呼びました。
ついにはアルルの市民30人から、市長に対し「ゴッホを病院に監禁してほしい」という嘆願書が提出され、警察は絵画を含めてゴッホの家を封鎖しました。
サン=レミでの入院と制作活動
1889年5月、改革派教会のサール牧師に伴われたゴッホは、自分の意志でアルルから27キロほどに位置するサン=レミ=ド=プロヴァンスのサン・ポール・ド・モゾール修道院療養所に入院します。
ゴッホは入院後もたびたび起こる発作に苦しめられましたが、発作が起きない時間を使って病院構内の眺めや病院職員の肖像画を描くなど、油彩画の制作や素描に打ち込みました。
ゴッホの代表作『星月夜(画像中央)』は入院してすぐの6月に描かれたものです。
サン=レミ時代のゴッホは、ドラクロワ、レンブラント、ミレーといった巨匠作品の模写や、自身の作品の模写を20点ほど制作しています。
オリジナルの宗教画を生涯制作しなかったゴッホですが(教会の風景画・聖書の静物画を除く)、サン=レミでは天使やピエタを主題とする巨匠作品の宗教画模写にも取り組みました。
ゴッホはサン=レミでの入院中に何度も絵の具やテレビン油を飲む自傷行為を行っており、そのたびにゴッホは絵を描くことやアトリエに入ることを禁止されています。
絵画制作を禁止されたゴッホはシェイクスピアなどの本を開き、読書で時間を潰しました。
ゴッホの甥フィンセント誕生と祝福の名画
1890年1月、テオの妻ヨーが男児(ゴッホの甥)を出産します。この子はテオの兄であるゴッホから名前を取り、フィンセントと名付けられました。
1890年2月、ゴッホは甥であるフィンセントの誕生を祝い、後の代表作となる『花咲くアーモンドの木の枝』をテオ夫妻に贈りました。
この頃からの2か月間、ゴッホは激しい発作に襲われるようになります。
アンデパンダン展ではゴッホが出品した作品が評判を呼んでおり、ゴッホの作品は徐々に評価される兆しを見せていました。
束の間の幸せ オーヴェル時代
1890年5月、フィンセントは1人でパリに行き、テオやその家族と面会できるほど回復していました。テオの妻ヨーによれば、このときのゴッホはテオよりも血色よく見えたといいます。
ゴッホがテオを訪れたとき、テオの部屋には『馬鈴薯を食べる人びと』『ローヌ川の星月夜』『花咲くアーモンドの枝』などゴッホの代表作となる名画の数々がかけられていました。
旅行ができるほどの健康回復を実感したゴッホは、テオと別れたあと、パリから30キロ離れたオーヴェル=シュル=オワーズに向かいます。ここはカミーユ・ピサロからも勧められた、パリ北方の画家が集まる土地でした。
オーヴェルの美しくのどかな風景やガシェ医師とその娘マルグリットたちのおかげで、ゴッホの旺盛な制作意欲はみるみる蘇り、村の風景や葡萄畑など2か月間で80点もの絵画を制作します。
ゴッホの治療を担当したガシェ医師は、カミーユ・ピサロの友人であり、美術愛好家であり、日曜画家でもありました。ゴッホはガシェ医師のもとで制作を続け、ガシェ医師のプレス機を借りてエッチングにも挑戦しています。
1890年6月には、テオとその家族もオーヴェルに招待され、ゴッホやガシェ医師ら皆で食事や散歩など楽しい時間を過ごしました。
テオの窮状とゴッホ最後の手紙
1890年7月、裕福とはいえない生活のなか兄ゴッホへの支援を続けていた弟テオは、自身の経済や住宅問題、子供の病気など、多くのことで頭を悩ませていました。
テオの窮状を知ったゴッホは、「自分がテオの重荷になっていることは悲しい、自分も悩み苦しんでいる」という旨の手紙をテオに送っています。
7月23日、ゴッホがテオに宛てた最後の手紙には、ゴッホの4枚の素描と、自分と隣の部屋に住むヒルシッフのための絵の具の注文が綴られていました。
フィンセント・ファン・ゴッホ、最期の数日間
1890年7月27日、夜遅くに宿に戻ってきたゴッホが血を流していることに気付いたラブー夫妻は村医者マズリーとガシェ医師を呼びます。
ゴッホはガシェ医師に「銃を使って胸を撃った」と告白。
ガシェ医師はゴッホの胸から弾を取り出すことはできず、包帯を巻く処置のみを施しました。
翌日、ガシェ医師がゴッホの隣に住む青年ヒルシッフに手紙を持たせてパリのテオのところへ行かせると、テオはすぐにオーヴェルにやってきました。
ゴッホはテオと話をしたり、パイプをふかすなどした後、
7月29日早朝、テオに見守られるなか息を引き取りました。37歳でした。
フィンセント・ファン・ゴッホの葬儀とテオの死
1890年7月30日、ゴッホの慎ましやかな葬儀が行われ、亡くなったゴッホの棺はラヴーの下宿の部屋に安置されました。
ゴッホの棺はダリアやひまわりの花で飾られ、棺の脇にはゴッホが使用していたイーゼルや野外スケッチ用の椅子、画材なども並べられました。
ゴッホの葬儀の参列者はゴッホの弟テオやガシェ医師のほか、画家仲間のエミール・ベルナール、A.M.ローゼ、シャルル・ラヴァル、リュシアン・ピサロ(カミーユ・ピサロの息子)、パリのタンギー爺さんなど12名ほど。
ガシェ医師は葬儀の場で涙ながらにゴッホの偉大さを語りました。
1890年9月、ベルナール協力の元、ゴッホの弟テオは自宅で兄ゴッホの回顧展を開きます。
そのテオもまたゴッホが亡くなった数か月後に病に倒れ、1891年1月25日に息を引き取りました。
ゴッホとテオは当初別の地に埋葬されていましたが、1914年4月、テオの遺骨は元妻ヨーの手によってゴッホの墓の隣に移されました。
現在、ゴッホとテオは2人並んでオーヴェルの墓地に眠っています。
ファン・ゴッホの作品の特徴・鑑賞ポイント
ボッテリ厚塗りなゴッホの筆触 インパスト
絵画の表現技法に、イタリア語が語源の「インパスト(盛り上げ塗り)」があります。
チューブに入った油絵の具は垂れにくくボッテリしているので、ゴッホはこの特性を生かして筆にたっぷりと絵の具を取り、筆をキャンバスに押し付けて、絵の具の質感や絵筆の筆触をはっきりと残すインパストを多用しました。
鮮やかで力強く勢いのあるゴッホの筆触は、時には畝のように、時には彫刻のように見えます。
時代によって明確に異なる色彩・表現手法
ゴッホの作品の色彩や表現手法は、オランダ、パリ、アルル、サン=レミ、オーヴェルとゴッホが暮らした土地と共に変化していきます。
オランダ時代のゴッホの油彩画は、暗い土色の色彩を混ぜ、そこにわずかなハイライトを乗せて明るさを表現していることから、画面全体が暗く重く感じられる作品が多いのが特徴です。
ベルギーのアントウェルペンでルーベンスの絵画に強い感銘を受け、明るい色彩を使い始めたゴッホは、次の土地パリで印象派の技法と明るい色彩、点描を自分のものにすると、ジャポネズリー(日本趣味)な作品も制作しました。
アルルでは南仏の明るい風景が、心の病と発作に苦しんだサン=レミ時代は、ゴッホの作品の代名詞でもある大きなうねり表現を伴うオリーヴや糸杉が登場します。
短い画家人生のなかで様々な顔を見せる自画像
ゴッホは油彩画だけで37点の自画像を残しています。
ゴッホの自画像は、その1点1点にそれぞれ違う人物かと見紛うほど強烈な個性が加えられているのが特徴で、ゴッホは表面的な見た目よりもその内側の人間性を自画像に映し出そうとしました。
ゴッホは作品ごとに異なる雰囲気作りを意識していたことを認めており、ゴッホから妹への手紙には「1人の人間が多様な自画像のモティーフになり得ることを強調したい」と綴っています。
風景や物に感情を見出すゴッホの風景画・静物画
印象派の理論・技法から多大な影響を受けたゴッホですが、ゴッホ自身が印象派の画家とならなかったのは、刻々と変化する自然現象や風景を印象として切り取ることよりも、自然や身の回りの物に人間的な感情を見出し、象徴的な意味を持たせる作風に重きを置いたからだと考えられます。
ゴッホは、気分が良い時は明るい空に、悲しみや孤独感に襲われたときは荒天の麦畑に、自身の感情を重ね合わせました。
この傾向はゴッホがオランダで暮らした初期の絵画(画像左)にも見ることができます。
繰り返し模写した自身お気に入りの作品
ゴッホは傑作と認めた自身の作品を繰り返し模写しました。
ゴッホが模写を行った時期はサン=レミでの入院期間に集中しており、これは入院中に新たな人・物などモデルの入手が難しかったこと、自分の気に入っている作品を模写し家族や友人にプレゼントしようと考えたことが関係していると考えられます。
サン=レミでの入院中にゴッホが模写した自身の作品には『ファンゴッホの寝室』『アルルの女 (ジヌー夫人)』が、それ以前には『ひまわり』の模写が広く知られています。
ファン・ゴッホにまつわる噂の真相を解説
ゴッホは生前まったく評価されなかった?
画家は、生前は評価されず貧しいまま過ごし、死後しばらくしてから評価が見直され、作品が高額売買の対象となることがあります。その代表格として常に名前が挙がるのが「ゴッホ」です。
しかし実際は、ゴッホが亡くなる数年前から、ゴッホの作品は徐々に評価が上がってきていました。
第5回アンデパンダン展でのゴッホへの評価
まず最初にゴッホが大きな評価を得たのは、1889年9月、第5回アンデパンダン展に『ローヌ川の星月夜』と『アイリス』を出品したときです。この2点のゴッホ作品は芸術家や批評家の関心を呼びました。
1889年10月にはオランダの画家であり美術批評家だったジョセフ・ヤコブ・イサークソンが雑誌『ド・ポルトファイユ』にゴッホを賛辞する文章を寄せ、「後世はフィンセントの名を記憶するだろう」と書いています。
20人展 第7回芸術展でのゴッホへの評価
1890年1月、ゴッホが「20人展(あるいは二十人会とも)」第7回芸術展に6点の絵画を出品したときにも、ゴッホの作品は芸術家や批評家たちの間で評判を呼びました。
この展覧会ではゴッホの作品に対して批判も起こり、ゴッホの作品(特にひまわり)を拒絶した宗教画家アンリ・ド・グルーは自分の作品を展覧会から引き揚げています。このド・グルーの行為をトゥールーズ=ロートレックは「偉大な画家を批判するのは言語道断だ」と激しく批判、ついには決闘騒動にまで発展し、ド・グルーは謝罪の末20人展から締め出されました。
同年1月には文芸誌『メルキュール・ド・フランス』に美術評論家アルヴェール・オーリエによる「孤高の人々、フィンセント・ファン・ゴッホ」という熱烈なゴッホ推しの記事が掲載されています。
第6回アンデパンダン展でのゴッホへの評価
1890年の初めにプロヴァンス生まれの画家A.M.ローゼが「これこそ真のプロヴァンスの性格だ」とゴッホの作品を絶賛。
1890年3月20日から4月27日に開かれた第6回アンデパンダン展でも、ゴッホの弟テオと妻ヨーは、ゴッホの作品をみた印象派のクロード・モネから「この展覧会で最も素晴らしい作品だ」と賛辞を受けたほか、カミーユ・ピサロからも祝福を受けています。
また、このアンデパンダン展の成功に関し、弟テオの元にはゴッホとケンカ別れしたゴーギャンからも祝福の手紙が届きました。
これらのことから、「ゴッホは生前まったく評価されなかった」というのは言い過ぎで、「ゴッホは芸術家や評論家から評価の声が上がり始め、ブレイクが期待されるなか夭逝した」というほうが適当ではないでしょうか。
ゴッホの絵は生前1枚も売れなかった?
「ゴッホは生前評価されなかった」説とセットで語られることが多いのが「ゴッホの絵は生前1枚も売れなかった」説です。
こちらも実際には「1枚も売れなかった」は言い過ぎで、購入されたことが確実に証明されている作品が少なくとも1点存在しています。
ゴッホの生前に売れた作品『赤い葡萄畑』
1890年2月にテオからゴッホ宛に届いた手紙には、ウジェーヌ・ボックの姉アンナ・ボックがブリュッセルでゴッホの『赤い葡萄畑』を400フランで買ったことが記されています。
ゴッホが亡くなる前に売れたと証明できる作品は現時点では上記1点…と言われていますが、実際には複数枚売れていたという議論も活発に行われており、今後の研究などで新たに購入履歴のある作品が出てくるかもしれません。
ゴッホは自分の作品を褒めてくれた人に対して喜んで作品をプレゼントしていたという話が残されていることから、金銭のやりとりは確認できていないもののゴッホの作品を評価し入手していた人は存在すると考えられます。
絵画の注文を受けたこともあったゴッホ
また、ゴッホが画家を志して間もない1882年3月には画商の伯父コルネリス(コル叔父)がフィンセント・ファン・ゴッホにハーグの風景画を20点注文。これは生涯にわたりフィンセント・ファン・ゴッホ自身が受けた唯一の注文といわれます(1887年にタンギー爺さんから2枚の肖像画の注文があったともいわれます)。
1886年には、ゴッホの母と妹がフィンセントが残した70点の絵画を古物商に売りましたが、こちらは一部は数セントに、残りは焼却処分されてしまいました。
孤独な人生-ゴッホに友人や話し相手はいた?
オランダ時代の友人
ゴッホがグーピル商会に勤めていたころ、同じ職場で働いていたハリー・グラッドウェルはゴッホを大変慕っていました。
同じ下宿で寝起きしていたゴッホとグラッドウェルは、毎日食事を共にし、聖書の朗読を行い、並んで通勤するほど仲が良く、テオと3人で行動することもありました。
ゴッホがグーピル商会を退職したあともグラッドウェルはゴッホを訪ねています。
ゴッホがパリで知り合った画家たち
パリに出てきたゴッホはエミール・ベルナールと大変親しく付き合い、ゴッホがパリを離れてからも2人の文通は続きました。
また、カミーユ・ピサロやトゥールーズ=ロートレックといった画家たちも、ゴッホの世話を焼いたり、体調を心配してくれました。
彼らとの友情はゴッホが耳切り事件を起こしたあとも変わることはなく、エミール・ベルナールはゴッホの葬儀にも参列しています。
ゴッホの世話を焼いたアルルのルーラン一家
ゴッホはアルルで知り合ったルーランやその家族と親しく付き合いました。
ゴッホが耳切り事件を起こすと、ルーランは真っ先にゴッホの下宿へ駆けつけ、ゴッホが病院に入院した際は見舞いにも訪れています。
ルーランは郵便局員でしたが、書くことが苦手だったため、ゴッホの容態をテオに知らせる手紙を息子に代筆させたこともありました。
ゴッホが発作を起こしたあと、アルルの人々はゴッホに辛く当たりますが、ルーランとその家族は以前と変わらず優しく迎え入れてくれたといいます。
ゴッホは人付き合いが良いタイプではなく、頑固者で酒癖も悪かったことから、広い交友関係を築くことは難しかったようです。
しかし、ゴッホは決して人嫌いだったわけではなく、少ないながらゴッホを理解し迎えてくれる友人もいました。
ゴッホの死因は自殺?他殺?
ゴッホは銃で自殺を図った説
フィンセント・ファン・ゴッホの死因は、ゴッホが精神的な病に苦しみ、今後も自分の病は治ることがないのだろうという絶望から、自分の胸を拳銃で撃った「自殺」とされています。
重体のゴッホのもとに弟テオが駆けつけた際、ゴッホは「このまま死ねたら良いのだが」という言葉を残していることも自殺説を裏付ける根拠のひとつです。
ゴッホが自殺に走った原因としては、治らない病気への絶望のほか、妻ヨーや子供との暮らしを守るのに精いっぱいのテオに自分は見捨てられるかもしれないという不安、自分と同じ名前の甥フィンセント誕生による心の動揺、ゴッホの治療担当医だったガシェ医師への不信などが挙げられます。
ゴッホが死の直前に描いたとされる『カラスのいる麦畑』は、暗い空と飛び交う黒いカラスが不吉な予感を髣髴とさせる作品で、これは当時のゴッホの精神状態を表しているという説があります。
ゴッホは銃で撃たれた他殺説・事故説
「ゴッホの死因は自殺」説に対し、もうひとつのゴッホの死因の仮説として取り上げられるのが、野外で絵を描いていたゴッホに向けて若者が拳銃を向け、(故意でないにせよ)拳銃から発射された弾がゴッホの胸に命中したという「ゴッホの死因は他殺」「銃の事故」説です。
ゴッホが若者をかばって、あるいは何らかのゴッホ自身の意志により、第三者から銃で撃たれたことを黙ったまま亡くなったとされ、映画のエンディングなどではこちらのゴッホ他殺説を採用している場合があります。
他殺説の根拠としては、ゴッホが弟テオに送った最後の手紙には絵の具の注文が記されており、ゴッホには引き続き絵画を制作する意欲があったこと、自殺に使ったはずの拳銃がなかなか見つからなかったこと、犯人と推測される少年が事件当日ゴッホと一緒にいたという目撃情報などが挙げられます。
ファン・ゴッホが弟テオに宛てた手紙・書簡集
19世紀の画家ゴッホの生涯や経歴、作品の制作年月や詳細を語るうえで、ゴッホが弟テオを始めとする家族や画家仲間に送った手紙(書簡)の存在は外せません。
「手紙もまたゴッホの作品である」と言っても過言ではないほど充実したゴッホの手紙は、確認されているだけでも800通以上、そのうちゴッホに献身的だった弟テオに宛てた手紙は約650通以上にのぼります。
それらの手紙には、ゴッホが制作に取り組んでいる作品のこと、制作の上での苦悩や技法のくふうなど絵画に関する話題はもちろん、人生の夢や今後の構想、宗教論、精神論など、ゴッホの生き方・考え方が詳細に綴られています。
手紙のなかで時に激しく怒り時に落ち込む兄ゴッホを、弟テオは励まし慰めました。精神的・金銭的に支援を惜しまない弟テオはゴッホにとってなくてはならない存在であり、手紙は2人を結びつける重要なツールでした。
ゴッホの書簡集は、ゴッホの死後、まず初めに1911年にゴッホと親しかったエミール・ベルナール、その後1914/15年にテオの未亡人ヨーによって刊行されました。ヨー版の刊行時それぞれの手紙に付けられた通し番号は現在もそのまま使われています。
ゴッホの書簡集は多言語で書籍化されており、2009年秋にはファン・ゴッホ美術館による改訂版もWEB上で無料公開(英語)されました。
フィンセント・ファン・ゴッホの評価と現在
後期印象派の巨匠となったファン・ゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホは、ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌと並び、後期印象派の三大巨匠に数えられます。
後期印象派とは、印象派の後期という意味ではなく、印象派の次の芸術を担った運動のこと。印象派・新印象派による「自然現象の変化や光学理論に即した絵画表現」、つまり対象物を「らしく」見せることよりも、対象物そのものの価値を芸術作品として高めることに主眼を置きました。
後期印象派の三大巨匠ゴーギャン、ゴッホ、セザンヌは、それぞれ独自の価値観・美術論を持ち、多数の作品を制作したことで知られます。
なかでもゴッホは、強烈な色彩と力強い筆触で、物や風景に象徴的な意味を与えました。
世界の有名美術館が所蔵するファン・ゴッホ作品
ゴッホと弟テオの死後、友人やテオの遺族の積極的な働きかけにより、ゴッホの作品は次第に多くの人々の関心を呼ぶようになっていきます。
ゴッホが残した多くの手紙が公開されたことで、ゴッホの作品はゴッホの人生とセットで語られるようになり、1900年代に入ると作品の価格が高騰、ゴッホ作品の偽作も出回るようになりました。
ゴッホの人気の高まりと共に、ゴッホの作品は多くの美術館に貸し出し・売却され、現在では世界の主要美術館にてゴッホの名画を鑑賞することができます。
世界中のファンが訪れるファン・ゴッホ美術館
1961年にゴッホの絵画や手紙、友人の証言などを収集するためのフィンセント・ファン・ゴッホ財団が設立され、1973年にはオランダ・アムステルダムの国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館が落成しました。
ファン・ゴッホ美術館には、油彩画や素描のほか、ゴッホやその家族、友人に関する膨大な資料、ゴッホに関するあらゆる書籍なども所蔵されています。
ファン・ゴッホ美術館所蔵の『ひまわり』は、作品が破損しやすくなっていることを理由に貸し出し中止となったため、今後はファン・ゴッホ美術館でしか見ることができません。
コロナによる渡航制限が起こる前の2018年データによれば、ファン・ゴッホ美術館の年間来館者数はおよそ219万人。世界中から多くのファンがゴッホの絵画を鑑賞するために美術館に足を運んでいます。
ファン・ゴッホ死去後に高額取引された作品
「ゴッホは生前絵が売れなかった」という不遇エピソードと、「ゴッホのあの作品が数十億円で売れた」という高額取引エピソードは、そのあまりのギャップにいつの時代も人々の関心を引きつけてやまないようです。
日本が関わっているゴッホ作品の高額取引としては『ひまわり』と『ガシェ医師の肖像』が広く知られています。
1987年3月30日 のオークションに出品された『ひまわり』は、日本の損保ジャパン(旧:安田火災海上)が3630万ドル(当時の日本円で約58億円)で落札。現在も東京・新宿のSOMPO美術館に展示されています。
1990年5月15日のオークションに出品された『ガシェ医師の肖像』は、大昭和製紙名誉会長の齊藤了英氏が8250万ドル(当時の日本円で約124億5750万円)で落札。齊藤氏の死去後、『ガシェ医師の肖像』はオーストリアの投資家に渡り、その後は所在不明となってしまいました。